Ryukyu BINGATA

引用文献:
1954年 春秋社 柳宗悦『柳宗悦選集 第5巻 琉球の人文』P47

引用文献:
1954年 春秋社 柳宗悦『柳宗悦選集 第5巻 琉球の人文』P47

引用文献:
1943年 日本民藝協会 芹沢銈介『琉球の形附』P2

引用文献:
1943年 日本民藝協会 芹沢銈介『琉球の形附』P2

引用文献:
2012年 ADP 兒玉絵里子『琉球紅型』P35

引用文献:
2012年 ADP 兒玉絵里子『琉球紅型』P35

引用文献:
1996年 中央公論新社 岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』P45

引用文献:
1996年 中央公論新社 岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』P45

引用文献:
1996年 中央公論新社 岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』P45

引用文献:
1996年 中央公論新社 岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』P45

引用文献:
1996年 中央公論新社 岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』P45

紅型(びんがた)と藍型

「びん」は色。「かた」は模様。紅型をひとことで言うと「米糊を防染し、色を染め重ねる染織」です。模様を染める方法には、紙型を使う「型染」と、糊袋で模様の線を描く「筒引き」の2種類があります。
一方、色華やかな紅型に対し、「藍型(えーがた)」とは、琉球藍でのみ染める模様染です。生きている藍を育て、その体調を整えることにはじまる藍型は、狙い通りに染める紅型とは異なる素朴さがあります。

紅型(びんがた)
藍型(えーがた)

琉球の時代の技法や図柄と、
新しい創作を、両輪として

城間 栄市
城間びんがた工房 16代目 城間 栄市

戦後、紅型を復興した14代栄喜、緻密な手仕事でありながら大らかな作風でひとびとを魅了した15代栄順の跡を継ぐ。インドネシアでの染色修業などを経て2018年より家業継承。城間家の伝統的な顔料の使用法、海の柄、筒引き、藍などを受け継ぎ、一方で琉球藍染めに紅を入れる技法などを取り入れている。
紅型三宗家のひとつ。

知念 冬馬
知念紅型研究所(下儀保村知念家) 知念 冬馬

京都や海外でデザインを学び、2017年に祖父・貞男の跡を知念家10代目として継ぐ。型紙を2枚または3枚重ねて染める技法「朧型」や、生地の表裏に柄を染める「両面型」に精力的に取り組んでいる。近年は、他の産地や業界とのコラボレーションも。
紅型三宗家のひとつ。

屋冨祖 幸子
やふそ紅型工房 屋冨祖 幸子

日傘や琉球絣、洋服、水着、漆器を染めるなど、紅型を現代につなぐ商品開発や、最初の紅型カルチャースクール開講、ファッションデザイナーとのコラボレーションなどの先駆者として尽力してきた。16年間「琉球びんがた事業協同組合」の理事長を務め、現在は琉球びんがた普及コンソーシアムの初代理事長。

知念 績人・知念 績文
知念びんがた工房(上儀保村知念家) 知念 績人・知念 績文

城間栄喜とともに、戦後の紅型復興の立役者として功績を残した祖父・知念績弘より、知念家のみに伝えられている技法「糸掛け」を受け継ぐ知念家。海洋博国際洋蘭博覧会にて長年にわたり紅型の記念品製作を担当した父・績元の跡を継ぐ。紅型三宗家のひとつ。

紅型は道具づくりから

型紙

型紙

戦後は軍用地図などを型紙に用いました。

シーグゥ、丸きり

シーグゥ、丸きり

型彫りの小刀。カナ鋸の刃を加工してつくります。

ルクジュウ(六重)

ルクジュウ(六重)

型彫り時の下敷きに用います。素材は島豆腐。適度な油分でシーグゥが錆びにくくなります。

筆・刷毛

筆・刷毛

人や鹿の毛でつくります。鹿毛は固い冬毛と、柔らかい冬毛を使い分けます。持ち手部分に箸を使ったものはやわらかく、理にかなっています。

糊引き筒袋 型置きヘラ

糊引き筒袋

戦後、筒袋は軍用の厚手の生地、筒先は薬莢などで代用。現在の筒先はペン先や竹など。

型置きヘラ

戦後はレコード盤の欠片などで代用。現在も、プラスチック板などそれぞれの作り手になじむヘラがつくられています。

染料

染料

鉱物性の顔料を練り、豆汁で溶いて色作りをします。工房それぞれの色が出ます。紅型の美しさはイルクベー(色配り)にあります。

工程

  • 型彫り→
  • 型付け→
  • 色差し→
  • 隈取り→
  • 糊伏せ→
  • 地染め→
  • 色止め→
  • 水元

古今独歩の型染め

紅型は、現存する紅型や文献から、300年ほど前から技法があったことが分かっています。

琉球は統一王国の誕生(1429年)以前から、中国(明)と冊封関係があり、15~16世紀にはシャム(タイ)やルソン(フィリピン)、朝鮮、日本などとも交易しました。中国やインド、インドネシア、日本に、紅型と同じ染め方はどこにも見当たらず、さまざまな近隣国の染物をヒントに沖縄でつくりあげていった古今独歩の技法だと考えられます。

紅型の文献1

琉球が王国を形成した後、王族や氏族、村を統治する者たちが儀礼の場で身に着けるために、輸入された代用品として製作されるようになったと思われます。
沖縄に古くからあった染色技法に、近隣の国々のそれを取り入れ、沖縄の人々が誕生させていったものなのです。

琉球国の時代、染色の職人は「紺屋」と呼ばれ、首里、那覇、泊に45軒の紺屋がありました。王国士族に仕え、技を競い合った紅型三宗家と呼ばれる、知念家、城間家、澤岻(たくし)家のうち、澤岻家は廃業し、琉球の時代から今も続く紺屋には、知念家、城間家があります。

紅型の文献2

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